
隣町に「日詰(ヒズメ)」と言う地名があります。
その由来は十二世紀にまでさかのぼります。
当時、この町の東部(乙部)で砂金が産出され、砂金支配のために、平泉の藤原氏初代清衡の四男 清綱と その清綱の子供 俊衡(としひら)と季衡(すえひら)が、この地に館を建立しました。
そして、清綱の子供 俊衡(としひら)と季衡(すえひら)は、土地の地名から比爪(ひづめ)を名字にて、比爪太郎(ヒズメタロウ)、比爪五郎(ヒズメゴロウ)と名乗りました。
文治五年(1189年)、兄 源頼朝が弟 義経と奥州藤原氏攻撃の際に 自ら火を放ち館を焼失してしまいます。
比爪氏兄弟の居館とされている比爪館は、現在の赤石小学校に位置しています。
館跡周辺に「五郎沼」があります。
明治初期に縮小され現在の大きさ(約120平方メートル)になりましたが、栄華の時代は、極楽浄土の平泉を思わせる 大小の池がいっぱいあり、当時も蓮の花が咲いていました。
「五郎沼」の隣りにあるハス池には、中尊寺で藤原4代 泰衡の首おけから見つかったハスの種を復活させて咲く「古代ハス」を毎年七月より見ることができます。
この見つかった種は、比爪館周辺の種の可能性があるとして、株分けが実現したものです。
春は桜、冬には白鳥が飛来する「五郎沼」です。
今年も、中尊寺から株分けされて8年目の古代ハスが、大輪の花を咲かせました。
さらに「五郎沼」の周囲を散策すると東岸に大きな石碑があります。
繰り返す堤防の決壊を食い止めるために 人柱として生き埋めにされた女性の泣き声がするという伝説から夜泣石と呼ばれています。
この付近には、比爪館跡地や、俊衡が勧請したと伝えられる「薬師神社」、「嶋の堂観音」また、薬師神社向かい側には絵像碑として県内最古の「不動明王絵像碑(県指定文化財)」や、比爪五郎季衡の墓と伝えられている墓碑などが立ち並んでいます。
盛岡近郊でも、奥州藤原氏の栄華の片鱗に触れることができます。
皆さんも 当時を伝える石碑や五郎沼を訪ねてみてはいかがですか。
*紫波町平泉関連史跡連携協議会 資料参照
*「比爪」を、「樋爪」と記載している資料もあります。